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このブログ記事は個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません

emacsの思想

松山朋洋氏の「Emacsは死んだ」を読んだ。

Emacsは死んだ

UNIX界隈では、ソフトウェアの哲学が語られるころが多いし、ストールマン御大が開発者として名を連ねているEmacsも何らかの哲学や思想をもってしかるべきだ。しかし現在のEmacsの実装からは、パイプ入出力をほとんど持たない独立した環境を持ってしまっているぶん、いさいさか異形の存在である感がある。

このあたりの話はまつもとゆきひろ氏の記事が詳しい。

まつもとゆきひろのハッカーズライフ:第4回 Emacs対vi (2/2) - ITmedia エンタープライズ

歴史をひもとくと、Emacsは実はUnixの思想のもと生まれたものでなく、Lispの思想から生まれたものらしい。これは他のツールとの親和性があまりないEmacsの、かなり納得のいく説明だと思う。

すると、そういったUnix哲学の中にあるEmacsは、独立した「孤島」の存在であり、今後のバージョンアップの方向はより孤島になっていく事が、予想される。しかし松山氏は、やはりEmacsは外部プログラムに依存し発展すべきだと主張している。

要はSemanticで実現された価値がEmacsに閉じてしまい、社会的価値の増大が図れないのが問題になります。これは「Emacsの思想」に相反するものであり、Eclipseに至る危険な一歩を踏み出した証になります。

Lispのみで完結する環境はひいてはUnix文化への貢献度が下がることを意味する、という主張だ。

僕はWindows、OS-X、LinuxでそれぞれEmacsを用いている身である。その視点からすると、昨今のEmacsの「閉じた」肥大化は非常に歓迎するものがある。外部プログラムにたよるとなると、Windowsでの利用はほぼ絶望的なものになってしまう。なので、むしろ僕はLispで閉じたプラグインを好んで使っている。まさかこのような主張があるとは考えてもみなかった。

自分はEmacsの魅力は全く別のところにあると思っているし、ひとつにはマルチプラットフォームで用いることができるという点も軽んじられるべきではない。まつもと氏の言及するような、Unixの中のLisp思想として独自の進化をしてほしいと願っている。